Association of Sophian Teachers of English
上智大学英語教員研究会
Newsletter
第45号 2001年8月31日
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目 次 EFL Standard を考える 教育実習に向けて お知らせ |
EFL Standard を考える
―Fish Bowl から Open Seasの新たなモデル―
ASTE110回例会 2001年4月28日 吉田研作(上智大学)
はじめに
日本の英語教育は、今まで色々と批判されてきてた。効率があがっていない。コミュニケーションなんてできないではないか。21世紀の日本の英語教育はどのようになっていくのだろうか。21世紀日本の構想懇談会が、英語の第2公用語論を打ち出したときには、賛否両論が行き交った。しかし、その熱も今は多少冷めてきた。
第2公用語論自体に賛成するか反対するかは別として、せっかく英語教育のあり方について、もう一度考え直す良い機会を与えられたのだから、このまま元の木阿弥状態に戻ってしまったのでは、いかにも情けない。そこで、日本の英語教育の根本的な特性についてもう一度考え直してみたい。最近よくアメリカなどで、TESL/TEFLの勉強をし、その知識を日本の現場にもって帰ってもあまり役に立たない、ということを耳にする。
ALTの中にもTESL/TEFLを勉強してきた人がいる。そして、TESLでは、あくまでも「コミュニケーション」が重視されるので、日本の英語教育にそのコミュニケーションの要素がおおいに欠けている点を指摘する。ALTの中には、日本の英語教育が実践的でない、と批判する人が沢山いる。受験英語がある限りコミュニケーションを重視した英語教育はできない。もっと楽しい英会話を教えなければ、と言われる。
ネイティブの先生が、日本の英語教育をTESLのモデルに当てはめようとしているのとは対照的に、TESLを学んだ日本人の教師は、いかに、学んできたことを日本に当てはめようか、と悩んでいるのである。
本来、TESLとTEFLは異なる概念だが、最近、どういうわけか、TESL/TEFLと一緒して使っているケースが多いために、なんとなく、TESLもTEFLも元来同じものなので、分けて議論する必要はない、と考えられているように思える。しかし、やはり、ESLとEFLの環境の違いは大きい。そして、この違いはTESLとTEFLの違いにも反映されなければならない。TESL環境(英語が第2言語として学ばれている環境)とTEFL環境(英語が日常的に使われていない、外国語環境)とでは、学習方法に違いがあることに対する認識が欠けているようだ。ただ、この違いを明確にするに当たり、どうしても気になることがある。それは、日本におけるTEFLが、あたかも、受験を目的とした、非常に限られた英語教育と同義に使われているのではないか、ということである。つまり、日本でTEFLと言えば、受験英語で、受験英語では英語を本当に使えるようにはならないのだから、やはり、TESLのコミュニケーションを中心とした英語教授法を導入しなければ、日本の英語教育はコミュニカティブなものにはならない、と思われているように思うのである。
Fish Bowl Model
そこで、本稿では、受験英語とTEFLは全く使うものであること、また、TEFLとTESLがそれぞれ違った原理に基づいていることを議論したい。そして、その中で、日本のTEFLを今後どのような観点からよくしていけばよいか、について述べる。
まず、はじめに、英語教育のFish Bowl Model (金魚鉢モデ)について紹介しよう。金魚鉢で魚を飼う、という場合、いくつかの特徴が考えられる。(図1)
金魚鉢に入れられた金魚は、誰かが絶えず世話をしてやらないと生きて行けない。誰かが水をかえ、餌を与えなければならない。自分で餌を探すことはできないのである。金魚鉢は、絶えずきれいに保たなければならない。汚れがあっては、金魚が死んでしまうかもしれない。だから、不純物を取り除く。水温や水質も絶えずチェックする。
その結果、金魚は、他の魚とは全く孤立した、人工的な環境の中でしか生きていけなくなる。金魚鉢を二つ並べても、互いに相手の顔姿を見ることはできても、金魚同士は交われない。相手を見ることしかできないのである。つまり、金魚鉢の金魚は、100%人工的な環境に置かれているのである。その中でなら生きていけるかもしれないが、一歩外に出たらどうなるか。生きていくことは難しいだろう。(図1)
| Fish Bowl Model 他者への依存 水は誰かがかえなければならない 誰かが餌をやらなければならない 理想的環境の確保 水温、水質の管理が必要 掃除-汚れを取り除かなければならない 最も良い餌を与える 孤立化-恣意的な環境 他の魚からの孤立 全く恣意的な生活空間 |
では、このモデルを外国語教育に当てはめたらどうなるだろう。図2を見てみよう。このモデルの外国語教育では、教師が生徒に全てを与える。「この構文は、試験にでるから覚えなさい」「これは重要語句だから暗記しなさい」「この表現はよく出るからきちんと下線を引いておきなさい」「これは、単語帳に書いておきなさい」、という具合に。また、生徒は、「先生、これテストにでますか?」「これは覚えるんですか、それとも覚えなくても良いんですか?」と聞く。
このモデルの場合、誤りは許されない。なぜなら、テストでは誤りは全て減点されるからだ。どんなに小さな間違いも許容されない。汚れは全て取り除かなければならないのである。また、教える言語モデルは、純粋なもの、つまり、普段から「使われて」いて、個人や国民性によって「汚された」ものでは困る。だから、ideal
native speaker-hearer のモデルを使う。ただし、ideal native speaker-hearer
が誰なのかは分からない。だから、prescriptive な文法書(規範文法)や辞書が使われる。それに合わないものは全て「×」とされるのある。
このモデルでは、コミュニケーションは不要である。目的は、金魚鉢が作られた時に定められた(必ずしも意識的ではないかもしれないが)、言語の「正しい」形式や意味を覚えることにより、テストに合格する、入学試験に合格する、ということになる。しかし、問題は、それ以外のところでは何の役にも立たないかもしれないことである。
| Fish Bowl Model Applied 他者への依存 教師中心、受身的学習 理想的環境の確保 誤りに対する不寛容 他者モデルの利用(ネイティブ) 孤立化-恣意的な環境 コミュニケーション不要 与えられた環境でのみ役立つ |
このように、金魚鉢の中の英語教育は、教師中心で、言語形式を重んじ、生徒に「正しい」英語を「教え込む」ことにより、テストや入試に合格することを目的としていることが分かる。それは、正に、日本の今までの伝統的な英語教育の姿を表したものだと言えるだろう。「正しい」英語を「教え」、その英語に生徒を「適応させる」ことを目的とした英語教育なのである。
しかし、これは、決してTEFLそのものの姿ではない。TEFLとは、英語が教室以外で基本的に使われていない状況での英語教育を言うのであり、決して試験のための英語教育を意味するものではない。TEFLの環境でも、コミュニケーションを中心とした英語教育は十分可能である。ただし、それは、TESL(教室以外でも英語が実際の社会で使われている状況の中での英語教育)とは違うことを認識しなければならないのである。
Open Seas モデル
そこで、これからの日本の英語教育が進むべき道を探るために、金魚鉢から大海に出るためのモデルを提唱したい。
図3は、大海に生きる魚を模したモデルである。大海では、他者に依存するのではなく、魚は自らの力に依存しなければならない。自らが暮らすための水を探し、自らの食べ物を探さなければならない。他人任せでは、生きていけない世界なのである。
大海に出た魚は、既にある環境にいかに自らを適応させるかが問題となり、理想郷を求める訳にはいかない。水質は、絶えず変わる。水温も一定ではない。しかし、魚はその水に適応しなければならない。汚れや不純物も当然あるが、それにも適応できなければ生きていけない。また、食べ物にしても、自らが生きている環境に既に存在する餌を食べなければならない。誰かが餌を与えてくれるのではないからである。
大海の魚は、同じ環境を共有する他の魚と共存できなければならない。そこには、様々な交わりがある。場合によっては、敵だって存在するかもしれない。しかし、その与えられた自然な環境の中で生きていけなければならないのである。
| Open Seas Model 自立 自らの水域を求める 自らの食料を求める 与えられた環境への適応 水質の変化への対応 不純物への対応 環境に存在する食料の摂取 共存-自然な棲家 他の動植物との共存 自然環境の共有 |
では、この大海モデルを英語教育に応用するとどのようになるだろう。まず、生徒の「自立」あるいは、「自律」が必要となる。生徒が自ら積極的に学び、自らの学習に責任を持たなければならない。教材は、教師のみが与えるものではなく、生徒が真に興味を持ち、皆とシェアしたいと思ったものを積極的に取り入れていかなければならないのである。
しかし、そうなると、英語教育の目的は、いかに「正しい」形を教えるかではなく、いかに生徒が自ら伝えたい情報を正確に伝え合うことができるか、という視点に変わる。必ずしも形が「正しく」なくても、伝えたいと思う意味内容が正確に伝われば、それこそが第一の目的となる。金魚鉢モデルでは、「正しい」英語に生徒を適応させることが大切になる、と言ったが、大海モデルでは、その逆で、「英語を生徒一人一人のニーズや能力に適応させる」ことこそが大切になるのである。
大海モデルでは、不純物は容認される。それが現実の世界だから。大海には、様々な英語が存在する。インド人の英語と韓国人の英語は違う。そして、それは、アメリカ人の英語とも違う。しかし、どの英語も「通じ合う」という特性さえ持っていれば、大海では何の問題もない。大海には、また、様々な文化が存在する。しかし、単に文化を「知っている」だけでは生きていけない。違った文化を持った人間同士が、その違いをいかに乗り越えて互いにコミュニケーションしていくか、ということこそが大切なのである。異文化間コミュニケーションのストラテジーを学ぶことの重要性は、正にここにあると言えるのである。
| Open Seas Model Applied 自立(自律) 学習者中心、能動的学習 既存の環境への適応 形式上の誤りの許容、様々な英語の存在の認識 価値観の多様性の認識 共存-自然な棲家(環境) 異文化間コミュニケーションの重要性 多様な英語話者とのコミュニケーション能力の必要性 |
学習指導要領の記述
では、日本の英語教育は、上記のモデルの内、どっちに重きを置いてきたのだろうか。文部(科学)省がほぼ10年に1回改訂してきた学習指導要領の目標の変遷を追いながら考えて見たい。
1960年に発布された高等学校学習指導要領の外国語教育に関する項を見ると、外国語能力としては、「聞く能力」、「話す能力」、「読む能力」、「書く能力」、「基本的な語法」の学習が目標として挙げられた。また、文化面での記述では、「外国語を日常使用している国民について理解を得させる」ことが目標とされた。つまり、高度成長時代以前の日本の英語教育では、いわゆる4技能と基礎文法(語法)が強調され、それを用いてそれぞれの言語を母語として話している特定の国民を理解する、という受身的な目標が設定されたのである。
しかし、高度成長時代に入ると、その目標がにわかに変化してきた。1970年に施行された高等学校指導要領では、4技能と共に「外国語を理解」すること、そして自らの考えを外国語で「表現する能力」の重要性が併記された。また、この時の指導要領では、外国の人の「ものの見方などについて理解」することと同時に、「国際理解の基礎をつちかう」ことが目標に加えられた。つまり、ここでは、単なる4技能という「スキル」から、外国語を通して「理解」することと「表現」することというコミュニケーションの基礎的概念に力点が移ったと言えるだろう。同時に、また、「国際理解の基礎」能力の育成というように、単なる個別国家や国民から、より広い国際社会で生きていくための幅広い能力の育成へと焦点が移ってきたのである。別の言い方をするなら、1960年の指導要領に見られた「受身的」な姿勢から、国際社会で外国語を使い、外国の人と交わることを前提とした、より「能動的」な姿勢へと変化してきたと言えるだろう。
これは、1964年の東京オリンピック、そして1970年の大阪万国博覧会開催によって日本が国際社会の仲間入りを果たしたことがおおきなきっかけになったといえるだろう。日本人の外国語学習という観点からも、東京オリンピックの開催は、第1次外国語学習ブームを、また大阪万国博覧会は、第2次ブームをもたらしたのである。つまり、それまでと違い、単に外国語が、世界について学ぶ道具としてでなく、もっと積極的に世界の人と交わっていくための道具として認識され始めたのである。
その後の1978年の改訂では、1970年とほぼ同じ目標が繰り返されたが、1989年の改定では、更に一歩進んで、「外国語で積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度を育てる」ことが付け加えられた。まだバブルがはじける前で、日本の企業の海外進出が非常に盛んだった時代であり、また、ちょうどこの頃、初めて海外に出る日本人の数(観光も含めて)が年間1000万人を越したことは、この頃が日本人が積極的に海外に出ていく時代だったことを象徴していると言えるだろう。また、この時代に外国語教育の第3次ブームが出現したのである。
単に外国語を理解し、外国語で自らの考えを表現する、という表面的な目標から、より積極的に外国の人と交わるためには、コミュニケーションをしようとする態度を育成しなければならない、という動機付けの重要性に焦点が移ってきたことを意味している。「コミュニケーション」という言葉が学習指導要領の目標に使われたのはこの時からである。
また、以前の「国際理解の基礎」能力の育成という目標は「国際理解を深める」という目標に変わった。表面的な言葉の理解や表現、という概念が、より積極的に外国語を使ってコミュニケーションをする「態度」へと変化していったのと符号して、国際理解においても、表面的な基礎知識から、より深いレベルの「理解」の必要性へと進化していったと言えるだろう。
さて、次の指導要領の改定では、1998年7月に発表された教育課程審議会の報告を受け、1989年の学習指導要領の各目標を踏襲しながら、更に一歩進んで「実践的コミュニケーション」能力の育成の重要性が指摘されている(2000)。「積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度」を育成することは何よりも大切だが、それだけでは必ずしも「実践的」にコミュニケーションが出来るようにはならない。バブルがはじけ、経済大国日本が窮地に追い込まれた。そして、20世紀の最後の10年は、日本が世界の中でいかにコミュニケーション下手かを思い知らされる時代になった。その結果、単に「コミュニケーションを図る態度」だけではだめで、もっと直接的にコミュニケーションができる能力が育たなければならない、という認識が生まれたと言えるだろう。また、そのために、新しい学習指導要領では、言語の「使用場面」と様々な「ことばの働き」が具体的に提示されているのである。
このように見ていくと、金魚鉢の中の英語教育の目標は、決して、文部(科学)省の方針を表したものではないことが分かるだろう。それは、むしろ、英語教育の現場から生まれたものだといえるである。
21世紀日本の構想懇談会
では、悪評高い日本の英語教育の元凶は何なのか。それを考える前に、英語の公用語化論で議論を呼んだ「21世紀日本の構想懇談会」の報告書について少し考えてみたい。この懇談会は、日本の様々な分野の専門家によって構成されているが、意図的だったのかどうかは別として、外国語教育の専門家は含まれていない。外国語教育、という狭い観点からでなく、世界における日本の役割、という、より広い社会的観点から日本人にとっていかに英語が必要か、ということを明確に示してくれた点で、おおいに評価すべきだろう。
では、懇談会の報告書の中の、外国語教育と関係のある箇所を取り出して、少し検討してみたい。まず、報告書では、日本の社会について『「閉ざされたシステム」は空洞化し、疲弊していくだろう』と言っている。つまり、本稿の概念でいうと、日本の社会は、日本という「金魚鉢」の中に閉じこもっていては、「大海」で生きていくことはできない、というのである。
では、大海に出るために何が必要か、と言えば、それは、『「グローバル・リテラシー」(国際対話能力)』 だと言う。つまり、世界の人と対話ができるだけの英語力が必要だというのである。これは、正に、上記で述べた「大海」のための英語教育で求められているものと同じである。
しかし、問題は、このような「グローバル・リテラシー」を身に付けることができるような英語教育が現在なされているか、ということだが、報告書では、それがなされていない点を問題視しているのである。そして、そのために、「長期的には英語を第二公用語とすることも視野に入ってくる」としながら、しかし、そうするためには、「国民的論議を必要とする」ことが必要であり、更に、「英語を国民の実用語とするために全力を尽くさなければならない」と、英語教育に携わる人間に対する警鐘を鳴らしているといえるだろう。つまり、英語の第二公用語化は、英語教育に対するあらゆる努力が徒労に終わった時の最終手段、なのである。
いずれにせよ、21世紀懇談会の提言も、金魚鉢から大海への移行が急務であることを強調しているのである。
大海への道
ところで、大海モデルの外国語教育、と言っても一様ではない。第2言語環境も、アメリカで英語を学ぶ、というように、日常生活が元々その外国語で営まれている状況、インドやシンガポールのように、多言語、多文化社会における「共通語」的役割を果たし、教育、経済、政治などの特定分野で外国語が日常的に使われている、という状況など、その言語の役割は、その社会での必要性によって変わってくる。
しかし、外国語教育は、本来、学んでいる外国語がその国や社会において日常的に使われていなく、基本的には「学校」という限定された環境でしか使われない状況で行われるので、なんとなくどの国でも「同じ」だろう、と錯覚してしまう可能性がある。そして、もし違いがあるとしても、それは、その国でその言語がどの程度まで金魚鉢型の目標あるいは、大海型の目標に沿って教えられているか、という点でしか考えられて来なかったのではないかと思われる。
しかし、同じ大海モデルでも、実は、国によって、その性質が異なることを知っておく必要がある。例えば、下記にアメリカにおける外国語教育の大海モデルと韓国、日本の大海モデルの違いについて考えてみる。
アメリカの全国外国語教育協議会(ACTFL)は、アメリカにおける外国語教育(英語以外の言語)の基本原則について、次のように述べている。
| educate students who are linguistically
and culturally equipped to communicate successfully in a pluralistic American society and abroad |
つまり、アメリカという国は、多言語多文化国家で、人口の約15%(2001年度人口統計によれば、学齢期の子どもの20%)が英語を母語としないとされている。勿論、アメリカの主要言語(国語ではない)は英語であり、日常生活から政治、経済、教育の全ての営みは英語でなされている。
しかし、アメリカの場合は、国内にも既に「外国語」を必要とする「大海」(内海)が存在し、その中で外国語を活用しなければならないことが述べられている。
更に、abroad とあるように、海外でも外国語を使う必要性が謳われているが、アメリカ(英語圏国家全てに共通することだが)の場合は、それは、並大抵のことではない。なぜなら、実質上、英語が国際語として世界中で使われるようになってきているため、アメリカ人には、母語である英語以外の外国語を学ぶ必要性を感じにくいのである。そして、その時の大きな問題が、Phillipson
(1992)らが指摘する、英語帝国主義的発想である。国際英語をついつい、自国の英語と同一視し、また、その裏にある文化や価値観までも自国のものと同一視してしまう危険性をはらんでいるのである。
また、英語圏国家は、不思議と、どこも多言語・多文化国家であり、それぞれにおいて国内における大海的需要が大きい。そして、その逆に、国外における外国語の需要が少ない、という特殊な環境があるのである。
それに対して、韓国や日本の場合は、いわゆるモノリンガル・モノカルチュラルな国で、外国語の国内的需要は、さほど大きくない。日常生活から政治、経済、そして教育まで、全て母語のみでまかなえる環境にあるのである。
では、韓国の外国語(特に英語)教育の目標を見てみよう。
| 韓国の中等教育 (小泉、2000) 英語を国際語として位置付け、意思疎通を図るための基本的能力の育成を土台としながら 1. 現代の日常英語を理解して使い、 2. 国際社会と外国の文化への理解と 3. 自国の文化の発展と国力の成長への寄与を目標として、 そのための言語的基礎を整える |
このように、英語の国内的目標については何も触れていない。強調されているのは、国外にある「国際社会」であり、「外国の文化の理解」である。更に、国際社会や外国の文化を理解することにより、韓国人としてのアイデンティティをより明確に身につけ、さらに、国力伸張を図ることを目的としている。つまり、韓国における英語教育は、国外の大海(外海)を視野に入れ、その経験を自国の国民および国家のアイデンティティ確立のために用いることが英語教育の大目標になっているのである。
では、日本はどうだろうか。
| 現行の学習指導要領 外国語を理解し、外国語で表現する基礎的な能力を養い、 1. 外国語で積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度を育てるとともに、 2. 言語や文化に対する関心を深め、 3. 国際理解の基礎を培う。 |
日本の学習指導要領でも、韓国同様、国内的目標については何も触れられていない。かと言って、韓国のように、「国際社会」「外国の文化」という、明確な国外(外海)的大海の指定もない。たとえば、外国語を理解する、ということはどういうことなのか、外国語で「何を」表現するのか、また、「言語」や「文化」についての具体的記述もない。「国際理解」に関しても、個人レベルのものなのか、それとも、国際社会という、より広い視野に立ったものなのかも明確でない。
では、2002年度から施行される新学習指導要領の目標はどうか。
| 新学習指導要領(中学) 外国語を通じて、言語や文化に対する理解を深め、積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度の育成を図り、聞くことや話すことなどの実践的コミュニケーション能力の基礎を養う。 |
| 新学習指導要領(高等学校) 外国語を通じて、言語や文化に対する理解を深め,積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度の育成を図り、情報や相手の意向などを理解したり自分の考えなどを表現したりする実践的コミュニケーション能力を養う。 |
これを見ると、「実践的コミュニケーション能力」を養うことが要求されてはいるものの、やはり、現行の学習指導要領同様、明確な「国内」的、あるいは「国外」的目標の設定はない。
見方によれば、日本の学習指導要領は、アメリカや韓国のものと比べて「抽象的」過ぎる、と批判できないことはないだろう。
しかし、別の見方をすれば、アメリカや韓国が、社会言語学的要因を重視し、外国語がどのような場面で必要なのかを明確にしているのに対して、日本の学習指導要領は、いわゆる「コミュニカティブ・アプローチ」の原理原則を非常にうまくまとめたものであり、その言語コミュニケーション能力をどのような具体的な場面で(国内か国外か)用いるかについては、必要に応じて、学習者、あるいは、教師が考えることを要求していると言えるだろう。今回の新学習指導要領には、コミュニケーションの具体的な場面、また、その時に使われる具体的なことばの「働き」(functions)が挙げられているが、それも、国内、国外、という指定はされていない。
更に、もう一点、大切なことがある。それは、現行、新、両学習指導要領に共通する項目として、「積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度」を育成する必要性について述べられていることだ。これは、「モーティベーション」の重要性を強調した項目であるが、アメリカや韓国のように、より明確な外国語学習の社会的必要性が明記されていれば、教師としても、それなりに学習者にモーティベーションを持たせやすいだろうが、日本の学習指導要領は、非常に良くできている反面、具体性に欠けるために、この点が大きな課題となる。実は、日本でも、金魚鉢モデルの場合は、目標がはっきりしているので、少なくとも、外的モーティベーションは持たせやすい(受験に必要だから、、、良い学校に入るために、、、)が、大海モデルの場合はそう簡単にはいかない。他の国の目標にはないモーティベーションの項目が大切なるのは、このためだと言えるだろう。
では、上記で見たいくつかの例から、大海に向けての外国語教育を推進するための「条件」をまとめてみよう。
大海に向けての外国語教育政策に関わる要因
下記図5に、大海に向けての外国語教育政策を考える上で必要となる要因をまとめてみたが、大きく分けると、どのような言語・文化的環境で外国語が学ばれるか、その環境において外国語が果たすべき役割、そして、同じく、その環境において文化がどのような位置付けにあるかということを考えなければならないことが分かるだろう。
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言語文化的環境 外国語の役割 自国文化と外国文化の役割 |
アメリカのように、国内自体が多言語・多文化的環境である場合と、日本や韓国のように、単一言語・単一文化環境とでは、教育の目標が変わるし、その教育政策も変わる。本来、多言語・多文化的環境が存在する国の場合は、その国の中で実際に用いられている外国語の習得が不可欠となる。つまり、外国語が「国内的」に、コミュニケーションの道具として、また、国をまとめる道具として実質的な役割を果たすと言えるのである。また、文化、という観点からしても、外国の文化が、国内にも存在するために、その相互理解も不可欠になる。
それに対して、日本や韓国などの場合は、単一言語・単一文化環境なので、国内における外国語の役割は、非常に限定される。普段から、他言語話者と接する機会が少ないために、日常的なコミュニケーションの道具としての外国語の必要性はあまりないといえる。また、文化的な観点からしても、日常生活を営む上では、外国の文化に対する知識や理解はさほど要求されない。従って、このような国の外国語教育政策の場合は、国外に出た時の外国語および外国文化の必要性が主要な部分を占めるだろう。受験や資格試験等がある限り、「金魚鉢」の外国語教育政策はなくならないとしても、21世紀日本の構想懇談会が提起しているような、大海に向けての外国語教育を考えた場合だと、国外における必要性を主眼においた外国語教育政策を考えなければならない、ということになるはずである。
国内向け大海モデル
2001年の1月に、文部大臣の私的懇談会だった「英語指導法等改善の推進に関する懇談会」の報告書が発表された。色々な提案がなされたが、前章で述べた外国語教育政策の在り方と直接関係のあるものについて述べよう。この報告書に中で、日本の英語教育を2段階に分けて考える必要があることが指摘されている。一つは、「国民全体に求められる英語力」の養成であり、その上の段階が「専門分野に必要な英語力」の養成である。
前章で述べたように、日本の場合は、基本的には国外向けの大海モデルが当てはまることを述べたが、実は、国内向けの大海モデルも必要となってきたいる。下記のグラフを見て欲しい。

法務省(2001)
このグラフから分かるように、海外に出る日本人の数は、既に年間1800万人になっていることからも、「国外向け」の大海モデルの必要性は分かるだろうが、日本に来る外国人の数も年間530万人にまで伸びてきている点を見逃してはならない。つまり、それだけ国内においても外国語を使わなければならない場面が増えている、ということなのである。
報告書の中で、国民全体に求められる英語力、というのは、正に国外向けのみならず、国内向けの大海モデルの必要性を示していると言えるだろう。また、国外向けに関して更にいうならば、国民の6人に1人が毎年なんらかの形で海外に出ている、ということは、少なくとも英語に関しては、海外でも困らない程度に必要だということを示している。パック旅行で英語などいらない、という場合でも、いざという時のためには、少なくとも、基本的な英語力はどうしても必要なのである。また、最近は、高等学校の修学旅行でも海外に出るケースが増えているがその数は、年間10余万人にも上っている。もし、生徒がグループから逸れたら、、、何かの事故に遭遇したら、、、そんなことは考えたくないが、その可能性を否定できない限り、そのための準備は必要だといえるだろう。
時々、こんな話を聞く。外国人でも日本にくるのなら、日本語を覚えれば良い。何も日本人が彼らのために英語を使う必要はない、と。確かに、長年日本に住む覚悟で来る外国人にたいしては、それなりに正しいかもしれない。しかし、逆に言えば、日本人がタイに行けばタイ語を話せなければいけない、イランに行けばペルシャ語を、エジプトに行けばアラビア語を話せなければならないことになる。特に、短期の出張や旅行で外国に行くことになった場合、行った先々の言語を全て覚えてから、というのは不可能である。そして、そんな時に、せめて現地の人が英語が使えたら、、、と思うことがしばしばある。ならば、我々だって、短期で日本に来る外国人に英語で対応してあげられたらどんなに良いだろう。マクルーハンが言う、地球村では、いつどこで外国人に会うか分からないことを考えれば、せめて英語で日常的な事柄について応対できる能力を、全国民に身に付けてもらいたいと思うのは当たり前だろう。そして、それが、日本における「国内的」大海モデルなのである。
さて、この「国内的」大海モデルの特徴として考えられるのは、日本という環境の中での英語使用という前提があるので、まずは、日常的なスクリプトを英語で説明できる力が要求される。道に迷っている外国人がいれば、道を教えてあげる。買い物、乗り物、日本旅館、日本料理店など、日本的なスクリプトが必要とされる場面は数多くある。禁煙・喫煙の習慣、チップ、社会的マナーなどもそうだ。外国と違うスクリプトがある時にそれについてきちんと英語で説明できる能力を身につけることが必要なのである。
また、もう一歩踏み込んで、日本の大文字'C'の文化(お正月、節句、日本の芸能やスポーツ文化、食文化、学校文化等)などについても基本的な説明ができることが必要だろう。
そして、最後に、外国人と言っても、みんながアメリカ人やイギリス人ではない。むしろ、それ以外の人の方が多いだろう。となると、文化的には、この地球村に住む様々な人間、そして、彼らが持っている様々な文化や考え方に対するオープンな態度を育成することが大切になる。また、どこの人と会うか分からないのだから、色々な国について抱いているステレオタイプを捨て去り、個人レベルで対応できる、インターパーソナルなコミュニケーション・ストラテジーを身に付けなければならないだろう。
以上のことをまとめると、図6のようになるだろう。なお、ここでBICSというのは、カイミンズが言う、Basic Interpersonal
Communication Skills の略で、一般に「日常会話能力」といわれているものである。
また、日本の学習指導要領の記述が「綺麗過ぎて」具体性に欠けるために、学習者にモーティベーションを持たせにくい、と述べたが、このような形で国内向け大海モデルを考えれば、より具体的になり、教師にとっても、また学習者にとっても、「目標」が明確になるのではないだろうか。
| 国内向け大海モデルの目標 a) 環 境:日本 b) 言語能力:スクリプト、BICS レベル c) 内 容:日本のスクリプトの説明、日本の習慣、顕在文化の説明 d) 文化・国際理解:日本以外の文化に対するオープンな態度の育成・インターパーソナル・コミュニケーション・ストラテジーの育成 |
国外向け大海モデル
日本人にとって、今最も必要なのは、21世紀日本の構想懇談会の報告書が指摘しているように、グローバル・リテラシーを身につけ、世界の孤児にならないようにすることだろう。そして、そのためには、国外向けの大海モデルを、別に作らなければならない。それが、英語指導法等改善の推進に関する懇談会の報告書に挙げられている「専門分野に必要な英語力」だといえる。
今、日本にとって最も必要なのは、海外で行われる様々な政治、経済、商業、学問領域など、世界の国と対等に「対話」し「議論」しなければならない分野に必要な英語力である。日本人が、海外で様々な交渉に臨む時、その相手は必ずしも英米を中心とした英語圏の話者ではない。国際会議の場では、様々な国の人と交渉しなければならない。しかし、その場合の共通語は、やはり英語が圧倒的である。つまり、このような場で使われる英語は、それぞれの国の文化や考え方を伝える国際コミュニケーションの「道具」なのである。
そこで話される内容は、もちろん、日常的な内容もあるが、それに加えて、より高度な知的レベル(カミンズがいう、CALPレベルで、Cognitive
Academic Language Proficiency)のものが含まれる。場合によっては、日本、あるいは、日本人を代表して、その利益のために交渉しなければならな。もちろん、国民全体が必要とするレベルではないが、少なくとも、世界に出て行って交渉しなければならない人には必須の能力と言えるだろう。
それをまとめると、図7のようになるだろう。
| 国外向けモデルの目標 a) 環 境:日本国外 b) 言語能力:BICS およびCALPレベル c) 内 容:日常的な話題およびより専門的話題 d) 文 化:思想、主義などの違いを認識し、互いの立場を調整できる能力(インターカルチュラル・コミュニケーション能力) |
終わりに
日本がこれからの21世紀に生きていけるかどうかは、外国語教育、特に英語教育がいかに変わるかにかか過言ではないだろう。もちろん、英語以前に、日本語によるコミュニケーションの問題、また、更にそれ以前に、日本の若者のコミュニケーション下手どう変えていくか、というより根本的な問題が残っている。しかし、これらの問題があるからと言って、それが解決するまで日本の英語教育放っておくことはできない。言語は、やはり、コミュニケーションの道だし、また思考の道具である。日本語であれ、英語であれ、変わりはない。
日本の学習指導要領は、理論的には良くできている。ただ、問題は、具体性に欠けることだろう。上記のようなモデルを提示することにより、より具体的な外国語(英語)教育の目標を示すことができれば、モーティベーション、という大きな問題にもメスを入れることができるのではないかと思う。
参考文献
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Tsuda, Y. (1994) "The diffusion of English: Its impact on
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吉田研作(1999) 「英語教育に質的変化をもたらすことの必要性--英語科内の垣根をはずすために」英語教育 48/5
吉田研作(2000)『「知識」としての英語、「コミュニケーション」としての英語』
英語教育 Vol. 49, no. 3、6月
吉田研作(2000) 『英語「を」学ぶことから英語「で」学ぶへ』英語教育 Vol. 49,
no.4、7月
吉田研作(2000) 「水槽から大海へ」英語教育 Vol. 49, no. 5 、8月
吉田研作(2000)「学習者中心の英語教育」STEP英語情報、11・12
吉田研作(2001) 「21世紀の英語教育を展望する」STEP英語教育セミナー(http://www.eiken.or.jp/eigo-joho/seminar2001/6/index.html)
Yoshida,K.(2001) From Fish Bowl to the Open Seas: Taking a Step
Towards the Real World of Communication (TESOL 2001 Featured Speaker
Presentation, St. Louis)
教育実習に向けて
(高校の部)
ASTE111回例会 2001年5月12日 佐藤 方則 (神奈川県立柏陽高等学校)
中学校との違いを中心に教育実習への取り組みを述べたいと思う。例会では話し足りないことが多かったので、かなりこの原稿では付け足した。(自己研修すべき内容を自己反省に基づき、自分自身に教え諭す意味を含め)
1 教育実習って何?
目的
(1) 学校全体の教育活動を理解。
(2) 教育職員の持つ大きな使命感・仕事の重要性を理解。
(3) 教科指導・生徒指導を大学で学んだことと関連させつつ理解を深め、応用実践してみる。
(4) 教職への適性を考え,併せて研究課題の発見に務める。
(5) 障害のある人々・生徒を扱う場所での実習により自己の成長を図る。
と考えられるものをあげたが、実習期間は限られてる。(3)(4)は、意識せずとも行うだろう。その他は一つでも、あなた自身の目標として実践できれば素晴らしい。とかくすると貴重な教育実習期間に教材研究や個人での指導法研究に追われ、肝心の生徒や先生方とのコミュニケーションが少なかったり、実習をしている学校の環境・動きを理解せずに終わってしまう。(これ本当!)短い実習期間を活用するためにも、自分自身の具体的な目標を定めたり、始まる前に、実習の内容を出来るだけ理解し、教材研究などは準備しておくといいね。
2 教員の仕事とは
「高校は中学校と違って先生の担当する授業時間が少ないから楽ちん。空き時間に実習生同士同窓会!」なんて思っている人は、僕の後輩には、いないと思うけれど…。教員は「授業が勝負」だが、それだけではない。それでは、授業以外の仕事をいくつ思い浮かべることが出来るかな?
*学級担任・*教科担任(これが授業担当)
学年での係: 例 *教務(来年度のクラス編成)・進路・*修学旅行・生活指導・卒業アルバム・学年会計分掌 例:総務・*教務・進路指導・生徒会・生徒指導・管理・保健・図書・視聴覚委員会
例:教育課程検討・予算・行事検討・情報・推薦・卒業式・入試選抜・*入試制度検討・転編入・校務組織・人権・会計運営・*特色検討・事故防止・業者選定・*教科書選定・PTA担当係(書記・会計・広報・成人・指導・環境)*学校評議員
*部活顧問(ラグビー部・理科部)・*掃除監督(*印は今年の僕の役割)
3 教えること
教員は「授業が勝負」っていったけれど。一体何をどう教えるの。その拠り所は?
「学習指導要領」は一度は読んでおきたい。簡単に学習指導要領で中学校と高校を比較すると、高等学校編は各学年(中学:興味→意欲→態度)ごとではなく,7つある各科目ごとに目標・内容・内容の取り扱い(例.英語Iの言語活動は偏りがないように)が示されている。
(注) 7つの科目とは「英語I」「英語II」「オーラルコミュニケーションA・B・C」「Reading」「Writing」
目標
(1) 外国語理解・表現できる「能力」の育成
(2) 外国語で積極的にコミュニケーションを図ろうとする「態度」の育成
(3) 言語や文化に対する「関心」を深め,国際理解の基礎を培う
言語材料:文法・文型のみ。語彙も必修語はなく,語数制限があるのみ。
以下のことは、実習期間のみならず「英語科教員に求められること」なので忘れたくない。(と自分自身にあらためて言い聞かせている)
英語そのものの実力(4技能;運用)
英語についての知識(文法・音声学・語彙・文化的背景)
言語教育に関する理論
言語教授技術の心得
さて実際に「授業」する場合は、次の3時期で以下のことを考えよう。
| 1 授業前(準備) | 2 授業中 | 3 授業後(反省) |
1. 授業前
(1) 大枠は「学習指導要領」で決められているが、各学校ごとに「英語科の申し合わせ事項(授業方法・進度)」がある。その他、「既習事項・前回の授業内容」なども指導教官に教えてもらった方がよい。
(2) さらに、これから行う授業が「1時間目か昼食後か」「学校行事との関連はどうか」「Team teaching」なのかを知っておくと作戦が立てやすい。
(3) 「授業観察」を行う場合は、事前に余裕を持って許可を得ておく,出来れば授業目標などを聞いておく。
(4) ここで、いよいよ授業の下調べ。
(a) 文部省検定の教科書は学習指導要領に準拠しているが、独自の編集方針もあるのでマニュアルなどを指導教官に借りる等して熟知しておく。
(b) 教えるレッスンの下調べを十分する。ところで「十分に」とは…
---内容・構成を理解
---指導目標・言語材料の理解
---音声・語彙・文法・背景的知識の研究
---教材を自分のものにする(内容・語法の理解→本文をなめらかに言えるように)
---教えることの精選
授業時間は限られている。手取足取りのfish-bowlからoceanへ
(吉田先生、パクりました!)
---中学校との違い:指導方法を工夫する必要がある。
(a) 中学校とは教科書の体裁が違う。「ページ毎」の指導がよいのか、課全体を様々に指導したらよいのか考える必要がある。
※次の用語を思い出そう。「Top-downとBottom-up」
(b) 例文・補助教材の選択の自由(生徒の語彙が増えている)がある。
---資料・地図・実物・統計(単位:比較)などの準備
---学習指導案を作成(指導細案)
活動のねらい。教員の活動、生徒の活動が一覧になる表を時間の流れに沿って作ると改善するときにも便利。
例
| 時間 | 活動のねらい | 教員の活動 | 生徒の活動 | 教材 | 留意点 |
| 5分 | ウィー-アップ・英語に慣れさせる | 日常の話題に関して英語による口頭質問 | 口頭で答える | なし | 部分的に繰り返し行う |
| 5分 | Dictationによる前時の復習 | テープ操作 | 書き取る | テープ | テープの方がCDより小回りが利く |
さらに、プロになったら「担当する生徒のこと」をより知ることが、さらに良い授業に結びつくがわかる。成功する授業では「教師の『教えるべきもの』と学習者の『学びたいもの』とがうまくかみあう。生徒を知るとは「意欲・動機・先の希望・家庭環境・地域の特色・クラスの雰囲気」を知ること。
2 授業中(教員の役割)
教員の役割は授業の型によって異なる。授業の型は大別すると次の2つ。
(1) 教員中心型の授業(teacher-centered)
教員はいかに効率よく生徒に「教え込む」かを考える。
(2) 生徒中心型の授業
活動としてはpair work, group workがあるが、教員の役割は「学習がおこなわれやすい状況を作る」
生徒中心の授業に、現代の主流となる「communication能力を育成するための指導方法(「表現形式」よりも「意味や伝達内容」に重きを置く)がある。その活動には
(a) role play練習
(b) information gap練習
(c) plus-one dialogue練習
(d) problem-solving練習などがある。
3 授業後(反省)
中学校との違いを中心に教育実習への取り組みを述べたいと思う。例会では話し足りないことが多かったので、かなりこの原稿では付け足した。(自己研修すべき内容を自己反省に基づき、自分自身に教え諭す意味を含め)
参考図書「英語科教育の基礎と実践」−新しい時代の英語教員をめざして(三修社)
上智大学関係のホームページ
1)上智大学のホームページ
http://www.sophia.ac.jp/
2)上智大学大学院応用言語学研究会 HOME PAGE
これは、上智大学の大学院で応用言語学を専攻した卒業生、または現在専攻している学生による HOME PAGE です。言語学、言語教育、応用言語学に関する関連サイト、短い記事や論文などが沢山載っています。興味のある方は是非一度立ち寄ってみてください。
CALPS HOME PAGE:
http://www.ne.jp/asahi/calps/home/index.htm
3)上智大学外国語学部英語学科 HOME PAGE
英語学科のホームページには英語学科で学べる専門分野についての紹介が各分野担当教員のエッセイの形で紹介されています。(上智大学の購買部でも買えます)
http://133.12.37.57/fs/eigo/eigo.htm
4)上智大学外国語学部言語学副専攻監修 「言語研究のすすめ」
語学の色々な分野を紹介したエッセイ集です。(上智大学購買部でも買えます)
http://133.12.37.57/fs/fukusen/gengo/gensusu.htm
5)上智大学大学院応用言語学研究会
この4月から大学院応用言語学研究会のホームページを開きました。院生が調べた論文の要約、そして、研究会で実施した帰国子女のアイデンティティに関する報告等が読めます。
http://www.ling.sophia.ac.jp/applied/
6)英語学科のBritto先生が集められた英語学習サイトの宝庫!!
http://pweb.sophia.ac.jp/~britto/weblab-e.html
7)吉田研作のHome Page
http://pweb.sophia.ac.jp/~yosida-k
お知らせ
1)ASTEの Newsletterは、ASTEのホームページ
http://www.bun-eido.co.jp/ASTE.html
にも掲載されています。インターネットをお使いの会員で、このニュースレターの送付を必要としない方は、下記 ASTE事務局までお知らせください。その他、ASTEに対するご意見、ご希望などございましたらお知らせください。
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